以前にも紹介しました(http://blogs.yahoo.co.jp/haganbisyou/30731481.html)私の一番大好きな仏画、普賢菩薩像が東京国立博物館の国宝室で公開中。http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=D01&processId=01&colid=A1
昨日はほんとは静嘉堂文庫の青磁を見に行こうと思っていたのだけど、いろいろ探しているうちにこっちを見つけたので行き先変更して見てきました。昨日が初日だったみたい。
このお像、大好きなので自分の部屋の経案の前にもA4くらいに縮小したカラー写真があるんですが、本物を見てみるとやっぱり大きい。
象に騎っていて、上には華蓋と散華が描かれているので縦に長く、背景の紫がかった暗い色から白象と白い身相とが浮き出ているように見えます。
法華経に
法華経を受持するひとがもし坐してこの経を思惟すれば、
そのときにわたし(普賢菩薩)はまた白象王に乗って
その人の前に現れよう。(中略)
六本の牙の白象に乗って、取り囲む無量の菩薩と、
一切衆生が見たいと思うような姿で、その人の前に現じて、
ために法を説いて示し、教え、利益を得させ、喜ばせよう。
とあるのに忠実に書かれています。おそらく薄暗い堂内ならもっと浮かび上がって見えたでしょう。
がーにーじーじょうろくげーびゃくぞうおう
よーだいぼーさーしゅー くーけいごーしょーにーじーげんしん
くーようしゅーごーあんにーごーしん
(我爾時。乗六牙白象王。與大菩薩衆。倶詣其所。而自現身。供養守護。安慰其心。)
がーとうじょうろくげーびゃくぞう
むーりょうぼーさーにーじーいーにょう
げんごーにんぜんにーいーせっぽうじーきょうりーきー
(我當乗六牙白象。與無量菩薩。而自圍遶。以一切衆生。所憙見身。現其人前。而爲説法。示教利喜。)
誰もいなかったらたぶん口ずさんでしまうであろう(笑)該当箇所。
本当にいい仏画です。ますます好きになっちゃいました。
細かく見てみると背景など結構痛んでもいますね。
仏身がちゃんと残ってるのは修理してるんだろうな。
3日で毘沙門天さんの縁日だったので行きは天王寺におまいりして、
そこから歩きました。木の多いあたりは直射もなくて涼しい。
もと東叡山一山だったあたりは3日に縁日が集中してますね。
元三大師堂、護国院の大黒さん、天王寺の毘沙門天さん、みんな3日です。
もう一度学生やるならあのあたりに住みたいな。
もう二度と一人暮らしはしたくないけど。さびしいから。
昨日はほんとは静嘉堂文庫の青磁を見に行こうと思っていたのだけど、いろいろ探しているうちにこっちを見つけたので行き先変更して見てきました。昨日が初日だったみたい。
このお像、大好きなので自分の部屋の経案の前にもA4くらいに縮小したカラー写真があるんですが、本物を見てみるとやっぱり大きい。
象に騎っていて、上には華蓋と散華が描かれているので縦に長く、背景の紫がかった暗い色から白象と白い身相とが浮き出ているように見えます。
法華経に
法華経を受持するひとがもし坐してこの経を思惟すれば、
そのときにわたし(普賢菩薩)はまた白象王に乗って
その人の前に現れよう。(中略)
六本の牙の白象に乗って、取り囲む無量の菩薩と、
一切衆生が見たいと思うような姿で、その人の前に現じて、
ために法を説いて示し、教え、利益を得させ、喜ばせよう。
とあるのに忠実に書かれています。おそらく薄暗い堂内ならもっと浮かび上がって見えたでしょう。
がーにーじーじょうろくげーびゃくぞうおう
よーだいぼーさーしゅー くーけいごーしょーにーじーげんしん
くーようしゅーごーあんにーごーしん
(我爾時。乗六牙白象王。與大菩薩衆。倶詣其所。而自現身。供養守護。安慰其心。)
がーとうじょうろくげーびゃくぞう
むーりょうぼーさーにーじーいーにょう
げんごーにんぜんにーいーせっぽうじーきょうりーきー
(我當乗六牙白象。與無量菩薩。而自圍遶。以一切衆生。所憙見身。現其人前。而爲説法。示教利喜。)
誰もいなかったらたぶん口ずさんでしまうであろう(笑)該当箇所。
本当にいい仏画です。ますます好きになっちゃいました。
細かく見てみると背景など結構痛んでもいますね。
仏身がちゃんと残ってるのは修理してるんだろうな。
3日で毘沙門天さんの縁日だったので行きは天王寺におまいりして、
そこから歩きました。木の多いあたりは直射もなくて涼しい。
もと東叡山一山だったあたりは3日に縁日が集中してますね。
元三大師堂、護国院の大黒さん、天王寺の毘沙門天さん、みんな3日です。
もう一度学生やるならあのあたりに住みたいな。
もう二度と一人暮らしはしたくないけど。さびしいから。
仏教は意識の主体性を重んじる。あらゆる事物は例外なく原因と結果によって成り立っているから不変の実体を欠いている。もちろん自分の意識もそのとおり不変の実体を欠いている。だから今この瞬間の意識が落ち込んでいたり不安であっても、それを自分の意識の本性であると認めてそれに振り回される必要はない。仏教によれば自分の意識にはかなりの自由が保障されているのである。
禅では上手い例えがあって、認賊為子、盗賊をわが子と勘違いする、という。
それを思うとき、私は自分の未熟さにいやというほど直面させられる。言葉ではわかっていながら全然自分の物にできていない。
告白しよう。
先日の夜8時頃、処理能力の小さい私は次の日の授業の資料づくりが間に合わず、かなりいらいらしていた。なんとかまとめ終えたころに友達から「今ひま?近くで飲んでるから来ない?」といううれしい電話があったので、二つ返事で出かけたのだが、お店に入った数分後にちょっと嫌なことがあった(今思えば些細なこと)のをきっかけにイライラがぶり返し、結局ニコリともせずに数盞を重ねて、帰ってきてしまった。他人に当り散らす言葉を言わなかったのは不幸中の幸いだけれども、自分が同席していて一番嫌なタイプを自分で演じてしまっている。
ほかにも、文章を書けば書かんでいい事を書くし、問題を隠していいところだけ顕そうとするものだから、「なに?褒めてほしいの?」というようなものしか書けない。まあ、これは私の行動の通弊でもあるようだけど。そういうときに書いた文というのは他人が読んでも(ただ面白くないだけでなく)潜伏したとげのようなものを感じさせるのか、誤解をも引き起こしやすいようだ。
梅雨時でむしむししているからだろうか。ここ数日の私は実体視して振り回される傾向、要するに煩悩がかなり強い状態にある。目に写るものや人、声や言葉の実体視には多少気をつけているから振り回されにくいものの、自分の内面といわれるもの、自分の過去(一瞬前)の思考には、それが自分だと思う習慣が根強くて、振り回され引きずられていることに気づきにくい。
不変の実体を欠く、ということを瞬間的に認識する練習にもっと力を入れなければならない。意識の自由を勝ち取るのだ。
それともうひとつ、過去の陥穽に再び落ちないよう、悔い改めも必要。
これまでに私が誤解させてしまった方々へ。
私にはあなたを傷つけようという気持ちはまったくありません。
それでも私がそのように受け取ることができる行動をとってしまったのは私の過失です。
どうかおゆるしください。
禅では上手い例えがあって、認賊為子、盗賊をわが子と勘違いする、という。
それを思うとき、私は自分の未熟さにいやというほど直面させられる。言葉ではわかっていながら全然自分の物にできていない。
告白しよう。
先日の夜8時頃、処理能力の小さい私は次の日の授業の資料づくりが間に合わず、かなりいらいらしていた。なんとかまとめ終えたころに友達から「今ひま?近くで飲んでるから来ない?」といううれしい電話があったので、二つ返事で出かけたのだが、お店に入った数分後にちょっと嫌なことがあった(今思えば些細なこと)のをきっかけにイライラがぶり返し、結局ニコリともせずに数盞を重ねて、帰ってきてしまった。他人に当り散らす言葉を言わなかったのは不幸中の幸いだけれども、自分が同席していて一番嫌なタイプを自分で演じてしまっている。
ほかにも、文章を書けば書かんでいい事を書くし、問題を隠していいところだけ顕そうとするものだから、「なに?褒めてほしいの?」というようなものしか書けない。まあ、これは私の行動の通弊でもあるようだけど。そういうときに書いた文というのは他人が読んでも(ただ面白くないだけでなく)潜伏したとげのようなものを感じさせるのか、誤解をも引き起こしやすいようだ。
梅雨時でむしむししているからだろうか。ここ数日の私は実体視して振り回される傾向、要するに煩悩がかなり強い状態にある。目に写るものや人、声や言葉の実体視には多少気をつけているから振り回されにくいものの、自分の内面といわれるもの、自分の過去(一瞬前)の思考には、それが自分だと思う習慣が根強くて、振り回され引きずられていることに気づきにくい。
不変の実体を欠く、ということを瞬間的に認識する練習にもっと力を入れなければならない。意識の自由を勝ち取るのだ。
それともうひとつ、過去の陥穽に再び落ちないよう、悔い改めも必要。
これまでに私が誤解させてしまった方々へ。
私にはあなたを傷つけようという気持ちはまったくありません。
それでも私がそのように受け取ることができる行動をとってしまったのは私の過失です。
どうかおゆるしください。
夏のお楽しみということで、最近「怪談」をよく読みます。
くだらないなあなんて思いながらも読み出すと止まりませんね。
ネットにも結構面白いの多いし。
あんまり怖くないのもありますが、
なかにはさっぱり意味不明なのがあって、
そういうのが一番気持ち悪かったりします。
くだらないなあなんて思いながらも読み出すと止まりませんね。
ネットにも結構面白いの多いし。
あんまり怖くないのもありますが、
なかにはさっぱり意味不明なのがあって、
そういうのが一番気持ち悪かったりします。
久々の更新です。
別に祖父が亡くなった悲しみに打ちひしがれて何も手につかないとか云うのではございませんで、単にネタがないからとサボっておりました。
葬式の記事の後に「飲み会楽しかったー」とかいうのはなんか不謹慎なきもしましたのでね。実には訃報の前から参加が決まっていたもの含め、結構いろいろと騒いでいたのでございます。
仏教的には飲酒はともかくとして喪中になにかするのはそんなに問題ないけれど、儒教というか世俗倫理としてはNGでしょうな。しかしまあ、儒教では親族の喪中には礼に従って悲しみの儀礼を行うことが要求され、仏教では追善が勧められるわけですが、日本人の葬送の考え方は必ずしもその通りではないなというのも感じますね。とくに今度のような老人の比較的幸せな死の場合は。外孫、という当事者になってみて、いろいろ考えることのあった今回でした。
別に祖父が亡くなった悲しみに打ちひしがれて何も手につかないとか云うのではございませんで、単にネタがないからとサボっておりました。
葬式の記事の後に「飲み会楽しかったー」とかいうのはなんか不謹慎なきもしましたのでね。実には訃報の前から参加が決まっていたもの含め、結構いろいろと騒いでいたのでございます。
仏教的には飲酒はともかくとして喪中になにかするのはそんなに問題ないけれど、儒教というか世俗倫理としてはNGでしょうな。しかしまあ、儒教では親族の喪中には礼に従って悲しみの儀礼を行うことが要求され、仏教では追善が勧められるわけですが、日本人の葬送の考え方は必ずしもその通りではないなというのも感じますね。とくに今度のような老人の比較的幸せな死の場合は。外孫、という当事者になってみて、いろいろ考えることのあった今回でした。
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