不捨室雑録

僧侶志望の大学生が綴る日々の記録。 趣味の陶芸や大好きな仏教について、 まあるい頭で考えたことを書きとめていきます。 古い記事はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/haganbisyou

2008.08.29 00:34 | | トラックバック(-) | コメント(-) |
昨年末に窖窯で焼いて、今年の20日に出したやつらです。
なんか予想とは違った(紫蘇色になるかと思ってた)んですが、緋襷はきれいですね。稲藁と雑草と両方使ってます。
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そういえば、というか、いまさら、というか、実は昨年の10月の末ごろから私のおくちの周りには口ひげが環状に形成されていまして、もうすぐ3ヶ月になります。
はじめのうちは周りの人の反応がいつもと違ってた―顔を見てる時間がコンマ数秒長い―のですが、最近ではよく会う人は慣れてしまいました。
今日伺った慈童さんには、ひげボウズがきてギョッとされたかも知れません。
なんだか剃る時期を逸したような感もありますが、私は不器用で剃るとあごの辺りに毎朝出血していたので、一部しか剃らないって非常に気が楽なんですよ。鋏を入れる面倒はありますけど。
顔をすぐ覚えてもらえるのは得かも。

28日の今日は初不動
今年は、ヤフーブログの頃からお世話になっている慈童さんのお寺の不動堂の法要にお参りしました。ブログで知り合った坊さんにお会いする(押しかけるとも言う)のはこれで3度目なのですが、実際に会うまでけっこうどきどきしますね。今のところ皆様とても良い人ばかりでいい刺激をいただいてます。
慈童さんはご祈祷の時には精進潔斎して礼盤に登られるそうです。昔ならいざ知らず、易きに流れがちな今日ではこういう坊さんはなかなか少ないのではないでしょうか。実は私もあやかって昨夜から葷酒を断って参加。まあひとりだからどうってことはありませんが。
天台宗のお寺で、檀家さん、信者さんが十数人お見えになってました。結構若い人もいました。説明もとても丁寧で、人が来ても来なくても毎月しているので来る気になったらいつでもどうぞ、と、こういうお寺がちゃんとあるうちは日本仏教もひとまず大丈夫かなと心強く感じます。

友人にこの事を話すと、宗派違うのに何で?とか、訊かれますが、
一つは、いろんな宗派のこと、仏教の全体を知りたいから。日本の坊さんって自分の宗派の修行や勉強はしてても、他宗のこととなるとほとんど答えられない場合が多いんです。私の師もそうで聞いても答えてくれないことが多かったので、他宗他派のいろんなのも知りたいな、というのが常に自分の中で燻っています。昔の高僧はいろんな師の元を遍歴するのでいわゆる八宗兼学の人が多いんですが、明治以降は分断状態です。それぞれの宗派で宗祖の著述によって立てた独自の教義と、信仰形態(たとえば儀式とか)があるわけですけど、明治以前は結構流動的に、Aにない作法はBから借りてきたり相互に勉強しに行ったりと柔らかく運営してました。そうすると教義とか信仰が硬直しないし、自分とこの特徴が分かるわけです。私は学生で東京にいる間は一信者として諸寺にお参りができるので、暇があればいろんな宗派のいろんなお寺にお参りしてますが、宗派によって、寺によって、参拝者の坐る位置、建物の配置から作法、香りまでいちいち違って、それ一つ一つにそうなるまでの経緯やら教義上の理由やらあるわけです。これって自分の宗派の法要しか見てないと絶対分からないことです。
それと、同じような理由で、普通の人から見たら同じような坊主頭なのに超宗派の人脈ってほとんどないんですね。わからないことがあってもそっちに知り合いでもいないと訊けない。だからそれも欲しいんです。

話は逸れますが、今日電車の中で「禅思想―その原型をあらう」という本を読んでました。いわゆる「禅」については非常に明快に書いてて、名著だなあと思いつつ読んでたんです。
ただ、禅って形式とか教義とか、あるいは認識までことごとく切り捨ててしまうんです。そういう地平があるってことが大事なのはわかるんですが、同時にそこが私にはしっくり来なくて、年を経て熟した形式を生かすことの方が今の私には大事なように思えます。首を切るのではなくて生け捕りにして使いぬくということ。

私がかたくなに「日本仏教」の信仰形態にこだわる(自分の信仰なら何も日本や仏教でなくていいじゃないか、まったく線香臭い、なんて)理由もその辺にありそうです。

大学3年。周りはみんな就活で、変化の時を迎えている。

この間正月に両親と会ったので、将来のことについて少しだけ話した。
うちの両親は、長男である私に、寺を継げとは昔から一切言わなかった。これは今も変わらない。
ボウズをやっていきたい、というのは2年前くらいから言葉に出して表明している。仏教僧、というくくりだ。寺院後継者、ではない。(ただ、現実問題、日本仏教各教団の教育体制は、おもに寺院後継者向けに組まれていて、そうでないと不利な時もあるから、私は今いる環境を抜け目なく使い分けている。)

S宗は一般には日本が誇る哲学書(ともいわれる)『正法眼蔵』の宗派、ZENの一派、DOUGENの宗派だと思われている。私自身も、折角縁あってS宗で得度したのだし、この国には、この寺にも、沢山の書籍、経典、仏具、法衣、周りの寺に比べれば小さいとは言うもののちゃんとした本堂がある。檀家さんもいる。
こんなに揃っていながら、操作方法を半分も知らないまま、乗りこなせずに死んでいくのは嫌だ。どうせなら全部使いこなせるようになりたい。
正法眼蔵の宗派だと思われているのだから、正法眼蔵のどのページ開いても、少なくともなんらかのコメントを付けられるくらいにはなりたい。法式hossiki(坐作進退)も、S宗のはとくに綿密な宗派なのだから、できるかぎり自分のものにしたい。余裕があれば、台か東か、どちらかの加行もしたい。(密教がわからないと日本仏教はわからないから)これが今の自分の意思だ。というあたりまでは何とか説明した。

じゃあなんでこの寺がないといけないのか、なんで(諸宗あまたあるうちの)S宗じゃないといけないのか、(うちの寺はいわゆる檀務、葬式法事にほとんど依存している)なんで仏式の葬式法事が必要なのか。檀務以外の寺院行持(開山忌、結制、etc)はどうして必要なのか。檀務と寺院行事と宗学との関係は?
それらすべてに(一通りでも)著語できない内は、住職なんか成れないでしょ、とダメ押しした。
(じっさいには、現代のフツーの寺の住職にはそうでない人が半数くらいいるのだ。おそるべきユトリ教育)


そこらへんまで話したところで、ちょうど夕刊が来て、話しが流れてしまった。
あんまり一度に押し過ぎたのか。

それから、卒業してから本山僧堂に行きたいというのは伝えてあるのだが、そのための道具類は準備してあるの?という話。
法衣一式、応量器、行脚用具その他いろいろ。
訊いて見たら、「なーに。衣屋さんに一式送ってくれって言えばすぐ届けてくれるよ」と。
おいおい、そっちはそれでいいかもしれないけど、こっちはそれ使わないといけないんだから。大丈夫なのかよ。(私個人の名前で衣屋さんに注文するわけにはいかないし)

このブログは坊さんも何人か見ていらっしゃるかもしれない。
寺関係出身ではないお坊さんも。あるいは、私と同じような境遇(コンビニより多いという日本の寺院の関係者)も検索したりして見てるかも知れん)。寺に関係ない仏教徒、現代仏教嫌いな人、あるいは興味だけはある、という人も。
きっと生ぬるい、師と父が一緒であるが故の甘えがある。そう思っていらっしゃることだろう。
私もそう思う。少なくとも、禅の師弟と聞いて連想するような緊張感は薄い。
なかなか急には変えにくいところがあるが、話すべきことは話しておきたいと思っている。
できるところから。

学生の本分たるテストその他が終わって一息つきました。
文学部は他より早いみたいですね。
みんな2日くらいまであるといっていたし。
テストのあとでするから待っててと言っていたのも
だいたい終わりそうです。

今日は1月27日。
鬼子母神の手創り市第3回なので出そうかと思ってましたが
準備不足で中止。今月も見には行こうと思ってますが。
もっと実行力をつけないと。
テストだからって環境の奴隷になっちゃいかんね。
随所に主とならんとね、つねに能動的に、意志の力で。

〜〜〜〜〜〜〜〜

見てきました。寒い時期の屋外会場だからしょうがないけど、
出展者さんちょっと少ないような。
一人、陶芸出してる方いらっしゃいました。
作品あんまり多くなかったけど。

来月は出そうと思ってます。あした予約しちゃおうっと。
今の予定では、来月初めから四国、吉野、比叡山、のどれかに出かけ
早めに制作と焼成を済まして、後半もどこかにいこうかな、
それで23日は出展と。

果たしてうまくいくだろうか。

寒さ厳しい折である。昨夜は数通の寒中見舞いを書いた。
年賀状はぐずぐずしている内に大部分を出しそびれた。代替策である。

そういえば、去年は寒い時期にひとりで窯のある山(森林ボランティアの活動先である埼玉神川の里山)に入って薪割りしたりいろいろ考えたりしたのだったな、と思い出した。
寒い時期だったのでてっきり春休みだと思っていたのだが、日記を見たら11月であった。山の上で、日暮れが早くて、とても寒かった。

たしか行きはバス停から4、50分歩いて登ったのだった。
月が円い夜で、曲がりくねる暗い林道を進むと、
山の反対側に出て急に足元が明るくなるところがあって、
そのたびにびっくりしたのを思い出す。
上り坂は途中で暑くなって服を脱いだ。
目的地に着くとあっという間に汗が冷えた。

山の中には森林ボランティアの人たちが建てた小屋があって、
薪ストーブが置いてある。
冬の山は乾燥する。山火事が恐い。
山主のAさんにはあらかじめ電話してあって、
建物の中なら火を使う許可も得ていたのだけれど
私は孤食に手間をかける気がしなかったのと、もう一つの理由で
蕎麦粉をスーパーで二袋買って持ち込んでいた。
蕎麦粉は水で掻けば食することができ火を使わずに済むので、
古来山中の修行に用いられてきた。
そう聞いていたので試してみたのである。

その山の中は岩が多いから、巌上で羅漢図のごとく
坐禅と洒落込むのも悪くないとそんなことも考えていた。
実際には11月の山は寒くって、石の上はお尻がつめたくて
坐禅どころではなかったのだが。

結局そのときは、寒くて寝付けなくて火も使ったし、
蕎麦掻は湯を使い、ついでに餅も焼いて食った。
次の日は昼寝までした。

そのほかの時間は斧を持っていた。
この山は下草に混じって茶の木がそこらじゅうに生えている。
枯葉の中でも青々とした葉を一枚とって味見してみると、
さわやかな甘みがあった。冬に備えて養分が蓄えられているのだろう。

2泊して、薪を十数束作って山を下りた。
大部分が計画倒れだったけれど、楽しかった。

テストが終われば春休みである。一月の山は寒いだろうか。

こんなニュースを見つけました。
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/tomikoumi/OSK200612260029.html

布薩を、形だけとか言われながらも毎月しているお寺はじつは結構あるのですが、なかでも真言律系の南都の西大寺、南山律の唐招提寺は律を表看板にしているお寺です。
ほかにも、梵網菩薩戒に基づいた布薩は天台宗、浄土宗、曹洞宗などの修行寺では半月ごとに行われています。
日本では独身制との問題もあって、ほかの仏教国ほどきっちりはされていないんですが、できるところからやるのはいいことですね。
あとは、儀式の流れに沿って意識をうまく運ぶことができるように、体と教えを馴染ませる工夫が要ります。

布薩は、半月ごとに戒の条項をいちいち確認し、違反があれば懺悔する儀式。


写真にも写ってますが、布薩を省略なしでする場合には、参加者の身と心を清めるために香湯、浄水、手巾を用いて手を洗う、という作法を全員がします。
そのために香湯、浄水を入れる浄瓶(じょうびょう、あるいはジンビン)とそれを受ける盥、参加者の人数を数えるために用いる籌(ちゅう)という細い竹の棒などを使うので、由緒のある、昔は修行僧が沢山いたようなお寺にいくと、漆塗りの立派なそれらの道具が展示されていたりします。
そういうのがガラスケースに入ってるのを見るたびに、(´-`).。oO(こいつら使ってやりたいなあ、と私なんかは思ったりしていたのです。
はじめは形からでもいいので、全国的に普及させたいですね。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

一週間実家にいて昨日東京に戻ってきました。
実家のお正月は例年通りでしたよ。去年のお正月の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/haganbisyou/22560226.html
去年は豪雪で雪景色をお届けしたのでしたが、今年はちっとも雪がなくて、風もなく非常に穏やかな三が日でした。正月っぽくなかったくらい。これから降るのかな?大変だな。

ボウズは、正月三が日には、本堂でする公式の修正会(三朝祈祷)のほかにも、自室(衆寮)で寿餅諷経jyubyou-huginという非公式のお祈りをします。



3日間、自分のお世話になった師匠たちの福寿をお祈りして、
4日にはお供えしていたお餅(寿餅)を持参して師匠に年賀のご挨拶に行くのです。師弟ともにちゃんと法衣着けて、お互いに礼拝します。
私の師寮寺には毎年2人、血縁以外のお弟子さんが寿餅持って挨拶にいらっしゃいます。私も得度の弟子なのでほんとはきっちりやるべきなのでしょうが、、公式の挨拶はサボってます。たぶん本山からもどったらちゃんとすると思いますけど。

正式には床の間に龍天さんという修行僧の守護神の掛け軸をかけ、その前に袈裟行李(修行僧の貴重品入れ)を飾り付けて行うのですが、
(寿餅諷経の飾りの写真はこちらhttp://www.komazawa-u.ac.jp/~zenbunka/list.htm)
私はそれらは省略で、、、まだMy行脚セット持ってないので。

お寺の中、家族のいる居間に聞こえないところで(風邪引くと心配されるので)なおかつ字が見えるくらい明るいところはないかなと経本持って転々としていたら位牌堂の西側の廊下が明るかったので、そこに坐蒲を持っていってお経だけ読みました。
3日で理趣分七巻、法華一部。(ほんとは少し4日にずれ込んだ)
三が日なんてお祈りのほかにすることもありませんしね。

寒いところなので、手を洗って本堂に入るとぶるぶるなんですが、多めに礼拝して(寒いので)、読み出すとそんなに寒くありません。でも、読み終わるとまた思い出したように、うっ、寒って感じます。
集中の問題なんですかね。不思議。

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