不捨室雑録

僧侶志望の大学生が綴る日々の記録。 趣味の陶芸や大好きな仏教について、 まあるい頭で考えたことを書きとめていきます。 古い記事はこちらhttp://blogs.yahoo.co.jp/haganbisyou

2008.08.29 00:36 | | トラックバック(-) | コメント(-) |
大学3年。周りはみんな就活で、変化の時を迎えている。

この間正月に両親と会ったので、将来のことについて少しだけ話した。
うちの両親は、長男である私に、寺を継げとは昔から一切言わなかった。これは今も変わらない。
ボウズをやっていきたい、というのは2年前くらいから言葉に出して表明している。仏教僧、というくくりだ。寺院後継者、ではない。(ただ、現実問題、日本仏教各教団の教育体制は、おもに寺院後継者向けに組まれていて、そうでないと不利な時もあるから、私は今いる環境を抜け目なく使い分けている。)

S宗は一般には日本が誇る哲学書(ともいわれる)『正法眼蔵』の宗派、ZENの一派、DOUGENの宗派だと思われている。私自身も、折角縁あってS宗で得度したのだし、この国には、この寺にも、沢山の書籍、経典、仏具、法衣、周りの寺に比べれば小さいとは言うもののちゃんとした本堂がある。檀家さんもいる。
こんなに揃っていながら、操作方法を半分も知らないまま、乗りこなせずに死んでいくのは嫌だ。どうせなら全部使いこなせるようになりたい。
正法眼蔵の宗派だと思われているのだから、正法眼蔵のどのページ開いても、少なくともなんらかのコメントを付けられるくらいにはなりたい。法式hossiki(坐作進退)も、S宗のはとくに綿密な宗派なのだから、できるかぎり自分のものにしたい。余裕があれば、台か東か、どちらかの加行もしたい。(密教がわからないと日本仏教はわからないから)これが今の自分の意思だ。というあたりまでは何とか説明した。

じゃあなんでこの寺がないといけないのか、なんで(諸宗あまたあるうちの)S宗じゃないといけないのか、(うちの寺はいわゆる檀務、葬式法事にほとんど依存している)なんで仏式の葬式法事が必要なのか。檀務以外の寺院行持(開山忌、結制、etc)はどうして必要なのか。檀務と寺院行事と宗学との関係は?
それらすべてに(一通りでも)著語できない内は、住職なんか成れないでしょ、とダメ押しした。
(じっさいには、現代のフツーの寺の住職にはそうでない人が半数くらいいるのだ。おそるべきユトリ教育)


そこらへんまで話したところで、ちょうど夕刊が来て、話しが流れてしまった。
あんまり一度に押し過ぎたのか。

それから、卒業してから本山僧堂に行きたいというのは伝えてあるのだが、そのための道具類は準備してあるの?という話。
法衣一式、応量器、行脚用具その他いろいろ。
訊いて見たら、「なーに。衣屋さんに一式送ってくれって言えばすぐ届けてくれるよ」と。
おいおい、そっちはそれでいいかもしれないけど、こっちはそれ使わないといけないんだから。大丈夫なのかよ。(私個人の名前で衣屋さんに注文するわけにはいかないし)

このブログは坊さんも何人か見ていらっしゃるかもしれない。
寺関係出身ではないお坊さんも。あるいは、私と同じような境遇(コンビニより多いという日本の寺院の関係者)も検索したりして見てるかも知れん)。寺に関係ない仏教徒、現代仏教嫌いな人、あるいは興味だけはある、という人も。
きっと生ぬるい、師と父が一緒であるが故の甘えがある。そう思っていらっしゃることだろう。
私もそう思う。少なくとも、禅の師弟と聞いて連想するような緊張感は薄い。
なかなか急には変えにくいところがあるが、話すべきことは話しておきたいと思っている。
できるところから。

  〜実際の理地には一塵を受けず、
   仏の事門の中には一法を捨てず〜

不捨室という私の室号はもちろん自分でつけたものだ。
駆け出しの若僧が室号なんていうのを持ってるのは分不相応だけれど、
私が自分の住んでいる部屋を勝手にそう呼んでいる。
陶芸の器のサインも始めは実名の一字を使っていたけれど、最近はもっぱら「不」の一字。

昔の坊さんには法然房源空とか、武蔵房弁慶とか房号というのがあって、
これはもともとは僧房の名前らしい。
禅僧も雲谷庵雪舟とか、〜庵、〜軒、〜窟、〜室というふうに居室にちなんだ号を名乗る場合がある。


不捨、捨てない、というのはどういうことかというと、

物事を切り捨てて純粋にしようというのではなく、何もかも飲み込み、包み込んで受け入れて
自分をつくっていこうという思いから。
そういう思いはずいぶん前から漠然とあったのだけれど、あるとき沙石集を読んでいたら
  實際理地不受一塵 佛事門中不捨一法
  (実際の理地には一塵を受けず、仏の事門の中には一法を捨てず)
という句が出てきて、これに因んで室号にした。

すごく煮詰まった句なのでで簡単に説明するのは難しいけれど、
胎蔵界曼荼羅でいえば外金剛部の隅からすみまでひっくるめて
中台八葉ど真ん中のビルシャナ如来だよ。
という感じ。(説明になってないって?)

仏教で「不捨」というとよく出てくるのは、
  光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
  (光明は遍く十方世界の仏を念ずる衆生を照らして摂取して捨てず)
というのだが、これは観無量寿経の真身観文というのに出てくる言葉で、
阿弥陀如来の慈悲の光はすべての衆生を救ってくれるよ、という意味。
うん、これも典拠としては悪くない。

でも実は大切なものを掃除と称して捨てられた腹いせの命名で、理由は後付けだったりする。


ほかにも良さそうな後付け典拠を知っていたらこっそり教えてください。
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